憂鬱になるとわかっていても映画を見たくなる。
私の欲してる物語や音楽は本当は憂鬱なものばかりかもしれない。
もしかしたら憂鬱を誤魔化すためにアイドルなんてのは存在しているのかもしれない。
帰り道、久しぶりにリリイシュシュの音楽を聴いた
あの音楽が本当に憂鬱になるのか、映画のイメージが強いからそう勘違いしてしまっているのかもよくわからない けど、とにかくリリイシュシュを聴くといつも憂鬱な気持ちになる 憂鬱ってのは意外と誰かの作品とかで味わえる
それをレンタル憂鬱と呼ぼう。
映画や音楽ってのは誰かの気持ちとか、自分じゃ計り知れない不幸とか幸福とか、そういうものを味見するためにあるものなのかもしれない
味見だけじゃ物足りなくなると、その感覚を手に入れるために必死に恋愛ドラマの真似をして彼氏を作ったり、気づけば恋に夢中になっているのかもしれない そして気づいたら自分はその物語の中にいるのだ
私がレンタルする割合の高い感覚はそれこそ憂鬱だと思う
高校生の頃なんかは「鬱漫画ランキング」なんてのをよく調べていたし、昔は調べるだけでもかなり気分が悪くなってサイトを閉じていたものだけど、成長するにつれて漫画を実際に手に入れて読むようになってみたり、手に入れても夜だけはどうしても読めなかった漫画たちが気づけば導眠剤になっていたりもする
それくらい私にとって憂鬱は日常の中に受け入れられたのだろう
初めて憂鬱を味見したとき、私は憂鬱を知らなかったのだろうか
もしかしたら、私は他人の定義する憂鬱とはどんなものなのか、自分の憂鬱と比較してみたかったのかもしれない そんな気がする
私の生活の憂鬱を超える憂鬱を体験して、こんなちっぽけなことで悩んでいるなんて…と自分自身を鼓舞したかったのかもしれなかった
今になってその比較やらができるようになったけど、正直自分の憂鬱を超えている、と思ったことはないかも
物語になるくらいだから、それだけスケールも大きくて、なんだか自分が普段連れ回している憂鬱とは質が違うものな気がする
し、所詮物語なんてのは誰かの頭の中の妄想なんだから、本物の憂鬱ではないわけだ
それじゃ、物語のは所詮憂鬱ごっこなのだ
憂鬱に振り回されていると思っていたけど、もしかしたら私は憂鬱を連れ回しているのかもしれない 憂鬱を散歩させているのかもしれない
いわば憂鬱とはペットみたいなものなのかもしれない
そう思うとけっこうかわいいやつかもしれない。
冒頭にも書いたように私は憂鬱を排除するどころかどうやら憂鬱を欲しているらしい。
憂鬱と聞くとどうしても負の感情に結びついてしまうし、実際そうだとは思うけど、私自身、憂鬱はけっこうきれいな感情だとも思っている というか繊細。
憂鬱をレンタルすると憂鬱な気持ちにはもちろんなるけど、それと同時に繊細な気持ちも味わえる気がする
だから私は憂鬱が嫌いなわけではないんだと思う
でもどうしても疎まれてしまうものではあるから、
適度な距離で、服用方法を守って
これからも付き合っていこう、憂鬱。